沈黙とはじまり
場所の履歴から再考すること
1987年に操業を止めた元織物工場で、西村雄輔と石井理絵は工場主である山﨑裕之氏とともに「場/ 地との対話」をめぐる活動yamajiorimono*worksを行なってきた。2005年の冬にその場と出会い、行為を始めた2006 年夏から、時折訪れ工場とその周辺の場に手を入れながら、「修繕」と見えるその行為の実は何を行なってきたのか。私たちは自問し続ける。
その場所は桐生の町に数多くあった個人経営の機屋の工場で、山治織物工場という。木造の切妻屋根の建物とその奥につながる小屋組の建物の横に2 連の鋸屋根の建物が連なった工場建物は工場主家族の生活する自宅と同じ敷地内にある。工場のすぐ脇は2m ほどの高さの土手でその上を電車が走っている。線路は単線。線路の向こう、土手を下った所には河原、そして川が流れている。川に沿って線路は続いていく。時折通る電車の音は、人々の会話をいったん途切らせる。
昭和の終わりに操業を止める直前まで、工場では十数台の鉄や鋳物で造られた力織機が音をたて、着物の生地が織られていた。昭和22年頃に現工場主山﨑氏の両親により整経の仕事が始められたのが山治織物の始まりで、以後大きな台風による水害や幾度かの景気の波を乗り越えながら主に御召しといわれる着物地を織り、建物を増築し織機を増やしながら事業を広げていった。多い時には十数人の従業員を雇い、住み込みの織り子達もいたが、生活スタイルの変化に伴い次第に着物の需要は減り、1987年、山﨑氏の手によって織機の動力が止められ、工場は扉を閉ざした。
停止から19年が経過した2005年冬。山﨑氏は、当時桐生の街なかを舞台に毎年開催されていた美術家らによる企画運営の展覧会「桐生再演 −街における試み」の参加者に声をかける。
「うちにもこういった建物があるんだけれど…」。
1994年に始まるその展覧会では、作家たちが街の中を歩いて廃屋となった鋸屋根の工場や気になる場所を見つけアプローチし、自らで所有者に交渉し作品を制作展示することが多かった。山﨑氏はそれとは逆に、その展示を観て何かを思い、所有者の立場から美術家たちへ話しかけたのだった。
その後、桐生再演の作家らが工場を訪問する。工場内に足を踏み入れるとそこは大量の物で溢れ、直接織物に関係していないだろう物たちも紛れ込んでいた。奥の方に経糸が掛かったままの織機が見え、張った糸の上に掛けられた新聞紙は酸化して茶色く、その上には砂のような埃が降り積もっていた。2 台ずつ向かい合うように設置されている織機の上を見上げるとさらに機械が載っており、そこから大量の短冊型の厚紙が連なった紋紙がだらりと垂れ下がっていた。紙は1枚ずつ沢山の穴があけられて、パターンをなしている。その穴を通して天窓からの光が見える。埃や雨漏りを避けるために織機や他の機械に部分的に掛けられたビニールやブルーシート、古い機械油と埃とカビの強い匂い。沢山の物で満ちた空間はほの暗く、視界に入らない暗部となっている部分もある。それらの状態が、音も無くただ、そこにあった。その光景を目にする時、余所者の訪問者であれば様々な幻想を楽しむことも可能だ。一種の廃墟趣味をくすぐるような状況である。
「場所」について、歴史的・地域的に俯瞰して見ることができる一方で、個人的な経験を通して得られる見方がある。自身の経験に即した、生活が重ねられた場としての見方だ。
桐生の機屋の場合、個人所有の職住一体といってもよい環境で、大企業の所有でも公共施設でもなく、単体で特別な時代を象徴することを担うものでもない。多くは中小規模の、あくまでも個人経営の一機屋であるため、そして比較的最近の記憶であるために、その場所は個人の人生、生活と深く結びつき、非常にプライベートに近いものとなっている。工場主=当事者から見たその場所のありようというものは、空間・時間の経験的に奥深いものとなる。そこには言葉にできない記憶や思い・感情といったものが解かれぬまま蠢いている。山治織物も例外ではない。
工場主の思い、共に暮らす家族の気持ち。その場所はまさに〈生きられた空間〉である。動かなくなったその場所は、大規模な悲劇の痕というわけではない。何者かに虐げられた場所ではない。しかしそれゆえ、多数の他者に知られ得るような明らかな視線からは外される。人々によく知られた大多数の歴史ではなく、そしてマイノリティの物語としても語られない。それは歴史の襞に折り込まれていくが確かに存在する、沈黙する普通の個人の小さな物語である。
町には、操業を止め扉を閉じ、沈黙して佇む工場が数多く残る。以下の文章には、そういった工場を閉めざるを得なかった人々の記憶の色が表わされている。
既に多くを失った都市を立て直すのは至難の業だ。曾て桐生は日本経済の基幹を支えてきた歴史があるだけに、焦燥と諦観が市民の心の奥底にトゲとなって刺さっていることを見逃してはならないだろう。桐生のどこにでもある古い建造物や埃を被った空間は、作家たちの目には創作の一対象であり、未知の幻影のうごめくカンバスと映ったかもしれないが、こうした市民にとっては、先祖の栄光を継承できなかった悔恨のモニュメントであり、出来ることならば人目に曝されないまま密かに葬ってやりたい空間であることに気づいただろうか。 森山 亨 (『桐生再演』カタログ 1994より)
今でも多くの人々がその産業に携わってきたことが容易に感じられる街では、多くの機屋が廃業したとはいえ、新しい形で事業を行なう人々もいる。それでも、織機がガチャンと鳴るたびに万のお金が入るといわれた好景気によるまちの活気や賑わいは、当時の空気を肌で知る人々にとって忘れることのない懐かしく輝かしい歴史であると同時に、苦い思いを呼び起こす「トゲ」となり、残され、動かぬ工場は「悔恨のモニュメント」であることもある。「人目に曝されないまま密かに葬ってやりたい」心境は、誰にも否定できまい。もしもそのまま人目に曝されないまま密かに葬ることが本当に当人たちを癒すことができるのならば、それもひとつの正しい在り方かもしれない。
けれども、そういった個人の小さな物語の集積が人間社会を支えているならば、密かに傷を閉じるのではなく、それらを自らの手で労わり記憶を再生しながら、そして自らの足が立つこの場、地の奥深くまでの繋がりを意識しながら、地続きの未来を眼差す方法があってもいいのではないだろうか。